Ron Martin

Ron Martin

Ph.D.

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今天,我将带大家进行一次短暂的回顾之旅. 我鼓励你照着做,想想自己的经历以及与之相关的人. I will begin in 1999. 我意识到,对于2013届的一些人来说,这意味着你还在上小学, which is just as good a place as any to start.

1999年3月,我结婚了,这就是我在日本的故事开始的地方. It was then that I made a commitment to my wife, Japan, 也为我的语言教育事业打下基础. 当时,我在一所公立初中教书,担任助理语文教师.

2000年1月,我进入坦普尔大学攻读硕士学位.

2000年秋天,在一次周末研讨会上,我遇到了两位来自一所私立学校的老师. 他们告诉我,他们一直在找一个人加入他们的新初中. 他们即将启用一栋新大楼并接收新生, 于是在2001年4月,我开始在一所初中教书,渴望把我在坦普尔中学学到的知识运用到工作中,帮助建立一门新的课程.

2001年秋天,我完成了我的硕士课程.

几个月后,2002年夏天,我被误诊为胰腺癌,活了大约10周,我相信我的生活将永远改变.

那年秋天,我意识到我的初中职位不会成为终身职位.

2003年1月,我进入坦普尔大学攻读博士学位……是的,是10年前.

2004年11月,我的博士核心课程即将结束, 我母亲去世了,一个月后,我和妻子迎来了yb体育网页版养子的归来.

2005年,我完成了博士课程的核心课程, and my dissertation began patiently waiting for me.

In February of 2006 my dad passed away.

2007年3月,我和妻子欢迎yb体育网页版的养女回家.

My dissertation was still waiting.

在2008年至2009年日本学年之交,我离开了年轻学习者语言教育的工作领域,在立教大学跨文化交流学院担任全职合同职位.

从1999年到2008年的十年间,我为公立小学和初中的日语教师举办了大约50场研讨会,尽管我从来没有数过, 以英语为母语的教师人数是这个数字的两倍多. 在那段时间里,我经常每周工作超过60个小时,特别是有一年,每周工作近80个小时. 我还被告知,我很可能是第一个以英语为母语的人被教育委员会邀请作为客座讲师参加公开课的人……这种情况发生了两次.

2012年,我以终身教职的身份加入了立教大学跨文化传播学院,并明确地期望我的论文能在短时间内完成. Well, it has or I would not be standing here today.

Ron Martin

这次回顾之旅不是关于失去亲人或欢迎孩子, success or even hardship or challenges. It is simply about life events. 我要求你们思考自己的经历以及与之相关的人. 我相信你们的经历在数量和影响力上与我相似,你们中的一些人很可能经受了比我想象中更大的逆境.

我将以我母亲在我大学毕业几年后告诉我的一句话来结束我的演讲. She said, "You know what you can and can't do." I think deep down we all know this. 21世纪初,我告诉我的同事和妻子,我的目标——不是梦想——是有一天成为日本大学的终身教授,教未来的老师,如果我有机会的话, 将来也会在yb体育网页版的教育研究生院任教. 没有人齐声告诉我这是可能的,我妻子也想知道为什么我认为我可以……担心我可能有某种虚假的希望. Well, 我知道我可以……我将朝着这个目标努力,直到我实现它或意识到我必须改变方向.

Just like you. 你知道你可以在坦普尔大学完成你的学位. You knew you could do it. You did it. We did it. Congratulations and thank you.

ロン・マーティン

ロン・マーティン

教育学応用言語学博士(Ph.D.)

本日は、みなさんをつかの間の回想の旅へお連れしたいと思います。みなさんも是非一緒にご自身のこれまでの経験を思いうかべてください。では、1999年から始めましょう。みなさんの中には、当時小学生だったという人もいるでしょうね。申し分のないスタート地点です。

私は1999年3月に結婚し,妻,日本,そして語学教育のキャリアを確立するという物語はここから始まりました。当時、私は公立中学校のALT(外国語指導助手)として英語を教えていました。

2000年1月、テンプル大学の修士課程に入学しました。

2000年の秋、テンプル大学で行われた週末セミナーで、私は私立学校に勤める二人の教師と出会いました。彼らは、これから開校する中学校の教師を探しているんだと言いました。新しい校舎が完成し、まさに新入生を迎えようとしていたところだったのです。2001年4月,私はテンプルで培った知識や技能を,新たなカリキュラムづくりに活かそうと,その中学校で教え始めました。

2001年秋、修士課程を修了しました。

数ヵ月後の2002年夏,私は膵臓がんと誤って診断され,これで人生はすっかり変わってしまうと信じ込んで,およそ10週間を過ごしました。

その秋、いまの中学校の職では、テニュア(終身在職権)を取得できないことがわかりました。

そこで2003年の1月、テンプル大学の博士課程に入学しました。そうです、10年前のことです。

博士課程のコースワークが終わりに近づいた2004年11月、母が亡くなりました。そして1ヵ月後に妻と私は養子を迎えました。

2005年、博士課程のコースワークを終え、ようやく博士論文の執筆が始まりました。

2006年2月、父がこの世を去りました。

2007年3月、妻と私は養女を迎えました。

まだ論文は完成していません。

2009年2008年からへと年度がうつる時,立教大学の異文化コミュニケーション学部でフルタイムの仕事を得て,私は前職を去りました。

2008年1999年からの10年間,私は公立の小中学校の日本人教師向けのワークショップを50回ほど行いました。数えたことはありませんが、ネイティブ教師向けのものはその倍以上は行ったはずです。その間、私はたびたび週60時間以上、ある年には80時間近く働きました。どうやら私は,教育委員会から客員講師として公開授業に招聘された最初のネイティブスピーカーだったようです。招聘は2回でした。

2012年,じきに論文が完成するという見込みで,立教大学・異文化コミュニケーション学部の専任教授となりました。そしてめでたく見込みを達成したわけです。そうでなければ、私は今ここに立っていないでしょう。

この回想の旅は,愛する人を失ったり子供を迎え入れたりすること,あるいは成功や困難,挑戦についての物語ではありません。ただ単に人生の出来事を並べただけです。私は、みなさん自身の経験とそれに関わった人々について考えてほしいとお願いしました。きっと、みなさんの経験も私のそれと近いものでしょう。なかには、私には想像もつかないような逆境に耐えた方もいるはずです。

ロン・マーティン

最後は、かつて母が私に残してくれた言葉で締めくくりたいと思います。大学を出て数年経った頃でした。「あなたは、何ができて、何ができないかわかっている」。私たちは心の奥底でこれを知っていると思います。2000年代の初め,いつの日か日本の大学で未来の教師を指導する,専任教授になることが私のゴールだ(決して夢ではなく)と,私は同僚と妻に話しました。そしてチャンスがあるならば、いつかyb体育网页版の大学院教育学研究科でも教えたいと。いけいけ!という応援の声が多かったわけではありません。妻も,ありもしない望みをかけているのではと心配しながら,なぜ私がそれをできると思えたのか不思議がっていました。そう、私はできると知っていたのです。達成するまで、もしくは方向転換する必要があるとわかるまで、私はその目標に向かって励むことを。

私もみなさんと同じです。みなさんは、テンプル大学で学位を修めることができるとわかっていた。やれるとわかっていた。そして成し遂げた。我々は、成し遂げたのです。おめでとうございます。そしてありがとうございました。